歴史

旅宿問答(肥前松平文庫より抜粋)

 関東武蔵国波羅郡別府郷に彦右衛門と云、大夫あり。元は是同郡𤭖尻郷の所生也しか、先年長享年中に上杉の棟梁山内顕定、同名修理太夫定正と波瀾発し、然るに将軍左馬頭政氏、顕定為合力、引率一万余騎、村岡如意輪寺に発向有り、其の時東天動揺め、万民足を立たず、郡郷一變の炎となる為に別府譜代の一老、長瀬内匠助家次、鎌倉八幡宮の社家、弘尊僧正の御扶助を蒙り、別府一郷を安泰に修む。・・・・・・
 心玄問曰く、其の邊は何の人、夫答て曰く関東武蔵国と申す、武蔵は何の地と問う、波羅の郡西別府の者と答え、其の邊は在家や山伏や問う、其れは大夫と答。・・・・・
 犬懸の郎ホ共は表具を悉く疉隠し、粮米のことくに馬に付き、或は人に負かせ上る、問致して知人なし、新御堂殿の御書入道の副状にて廻文を遣わす、御請申し方々には先、千葉新介,新田の岩松,渋河左馬助,舞木太郎,大類,倉賀野、武蔵には丹党の者共、其の外,花原,蓮沼,別府,玉井,瀬山,𤭖尾(尻か)、甲斐国には武田入道,小笠原一族、伊豆国には狩野の一類、相州に曽我,中村,土肥,土屋、常陸国名越一党,上総入道,佐竹一族,小田太郎,平沼大極,行方,小栗、下野に那須の越後入道、宇都宮左衛門尉、奥州へは篠河申故芦名,白河,田村,石河,南部葛西、街道四郡者共、皆道新す。大御所の内には木戸内匠助伯父甥,二階堂者共、佐々木一類を為、初百餘人同心す。
・・・安保丹後守惟助五郎,長井藤内左衛門尉、・・・・・
 檀那別府又は玉井,奈良,成田も皆藤氏北家にて御座候。・・・・・
 問うて曰、御檀方別府,玉井殿の四家は武蔵に聞候、七党の内候哉、答て曰、各別にて候、位の高下は存ぜず候、何様上代より公方様にては党の者共、四家の面々と思し召され候。是は持氏将軍の御代より殿中に於、日々記の役人法界坊と申す人、自言に申されき。亭主問う、四家の藤氏と云う引付候哉。 答、西別府の郷に丈六と申す大伽藍候、此往特に周乳藏主とて、及八十所翁(おきな)渡し被る候、此僧(傳)申被つるは、當寺伽藍初より一尺五寸なる大黒候。 此被負候袋の中に一巻の書あり、取出し見れば、當寺開基の様體、又は四家の由来を具に注し置候。 其書之赴四家と申は、淡海公十代の末孫、関白道長孫子式部大輔任隆、武州の大守として御下向之(これ)有、幡羅の郡御座す。 郡徒稱之 号幡羅太郎、此曾孫に成田三位式部大輔助隆、是藤氏なれとも。 八幡殿の伯父と申傳たり、安部貞任宗任為御追伐、奥州へ御下向の時、助隆は時の大将軍に御座はとて、八幡殿へ御出仕あり、八幡殿は伯父にて御座とて、助隆は御出仕あるとて、中途にて行合御申す、互に下馬あり、されば今に至迄、成田下馬カ橋か橋とて之(これ)有、諸侍當時も下馬す。
 此助隆に四人子有、次男に左衛門督持従三位行隆是別府也、三郎は奈良、四郎は玉井、嫡子次家伝々。
さて別府には、東西両名字にて候、亭主問て曰く、何れが惣領にて候哉、答えて曰、それ委しくは存ぜず候、何様旦那に候西別府は、代々左衛門にて候、されば代々先祖の墓共並立候、何の墓にも甲斐の権守左金吾と切付候、誠に宏才覚候。
 上卿四条の中納言蔵人頭左大弁藤原仲房御名所にて、文和二年四月九日日付、靭負尉宣旨を被成之候、靭負と申すは左衛門尉靭屓役人に候間、爾(そのように)か申す也歟。
 或いは郷の惣鎮守伊殿も西別府に御立ち候、九体丈六、又代々先祖の菩提所西に立候。 肝要祖父助隆東西の至四傍示書で行隆に譲被(ゆずりこうむる)譲状も、西別府に候、至今西別府には北南西とて、三人の庶子候、東は是かと見て候。
 亭問、何の頃より東西別れ候哉。 答、行隆の子に左衛門督行助、治部少輔義行とて両人候、義行、東行助跡を継候。
 攝州一谷などへは代官と為して、東小太郎立て見て候、其の時小太郎西国より一筆共、今に至る旦那文書に被副置き候、文書共、古別府と書き候は、助隆以前より別府と云う者有之事を顕して、古の字を置れ候哉。
 亭主問う、九躰丈六と申は佛歟(や)、菩薩歟(や)。 答て曰く、應身佛果長さ一丈六尺の佛を丈六と申し候、九體御座候う事、九品の教主阿弥陀如来と申す説も候、又過現未に各釈迦、弥陀、薬師御座候、三佛を顕すと云う説も候、大途(殿様の異称)阿弥陀にて御座候、其の故は本尊妙観察智の定印、脇の八體は皆三身説法を結び列れて渡し被り候、この堂に昔より袋佛とてホテイのなりしたる物を懐(いだく)、麁面(粗末な顔)第一の年寄佛、一體渡され被り候、是をは頭陀(ずだ仏道)上手の迦葉(かしょう)と云う人も候、又布袋と申すも大途迦葉(かしょう)にてされ被り候。
 【永正4年(1507)年頃の書】 ※別府と記載されている所を抜き書きしました
 ※「旅宿問答」以前に、淡海公が丈六の仏像を別府に安置したとされる史料は見つかっていません。おそらく、淡海公が亡くなった後、その返納された5,000戸の食封の内2,000戸は藤原家に戻して、残りの3,000戸分を諸国の国分寺に編入し丈六の釈迦仏造営に充てられた、と「続日本紀」にあります。
 そこから、淡海公が、丈六を造営したということで、旅宿問答では、ここ別府にも丈六が造営されたのかもと考えたものと思われます。
 今、西別府の安楽寺の南に、淡海公の墓と伝えられているものがありますが、この説の元となる史料が旅宿問答と考えられます。それ以前には、淡海公が別府に来たという史料はなく、「続日本紀」の淡海公が亡くなった後、返納された5,000戸の内の3,000戸の食封が丈六の釈迦仏造営に充てられたということが、淡海公が丈六を造営したという話に転化されてしまったものと考えます。
 彦右衛門さんは、“此の堂當初は三佛大佛にて御立候、それは淡海公の開基と注がれ候、九體に造り副候事は、行隆の再興と見えて候”とも言っています。淡海公の開基は伝説のようなもので、信頼は置けませんが、その頃、行隆の再興については何かの証拠が残されていたのかも知れません。
 そして、「旅宿問答」から「成田四家」や「"後太平記"の井殿明神の奇瑞」が作り出されたとも考えています。また、この「旅宿問答」を参考にして成田系図や別符系図が作成されたとも考えています。
 それが意外なことに、この「旅宿問答」や「成田記」を元にして「成田系図」が作られたことによって、正しい別府氏の、記録が歴史に反映されなくなったことです。東京大学史料編纂所でも、近年発行された熊谷市史でも、「成田系図」を元にした見方で、成田氏や別府氏の歴史を見ています。
 これは、幡羅郡にあったという、「白髪神社」、「冷泉院領」であったことなどを無視しています。別府とされた本当の歴史は、「別勅符」からのものではありません。別勅符で賜う田は「賜田」といい、嵯峨天皇(冷泉(令然)院)へ奉り上げられた田は、勅旨による天皇家(院家)の「勅旨田」です。
 別府は、天皇家(院家)の直轄する土地であったと考えます。
 亭問うて曰、井殿と申は、権現か明神か。答、大明神にて御座候、惣(そ)の波羅の郡惣鎮守伊殿とて、彼の郡内に所々に御立候、是は春日第二皇子、神形は武具立て蘆(あし)毛馬(げうま)に被召、本地は大聖文殊也。
 詳細は、後日、アップして行きます。


           古書,絵図に見える別府


             幡羅官衙遺跡群


成田氏と別符(別府)氏

成田氏と別符氏 国立国会図書館蔵絵図,絵図に見るくまがや展パンフレットから    ↓*Adobe flash Playerを使用しています ⇒「のぼうの城」                                              成田氏と別符(別府)氏    映画「のぼうの城」で石田光成の水攻めに耐えた忍城、成田氏が忍の大亟を攻め滅ぼして再築城したといわれていますが、それは別符氏の猶子となった、きくおう丸から始まった。これは道久の譲状から分ったことで、猶子を今の養子と同じにとるか、とらないかで違ってきてしまいます。でもこの譲状の文言では別符氏が領した本来の別府郷(現在の熊谷市)の安枝名でなく、「中条保」と「上江袋」の地を猶子の「きくわう丸」に与えています。譲状では、継ぐ嫡子に与える地名は書かなければその地の安堵状をもらうことができなかったと思われます。   成田系図には、安保氏が入ってきた以降、乱れがあるように思います。それを表しているのが下載の「道久の譲状」と思います。自分の子でない、成田氏の子を別符氏の猶子としています。   細かな内容は、下記の調べた資料を読んで見て下さい。これは私的に調べたことですので、間違いもあると思います。間違っていると思われるところなどがありましたら、メール下さいますよう、よろしくお願いいたします。    これまでの成田氏に関する研究などでは、成田系図や成田記などから成田氏や別符氏のことを調べていたように思われます。  どちらかといえば、成田氏中心の調べ方で、別符氏は隅に置かれていたと思いますが、後醍醐天皇や足利尊氏,足利成氏などの書状からみると、成田氏がもらった書状は見られず、別符氏のもらった書状が数多く見られます。   成田氏も鹿角や出雲に所領を得た文書もありますが、別符氏(西別符氏か)も来海の弘長寺を開基した文書もありました。   現在ネット上で見かける情報は、ただ本を読んだだけで、その情報を信じてそれを垂れ流しているようにも思います。じっくりと読んで

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