上野人物志の“僧正伊(一州正伊)”に、太田道真と月江(正文)の名前が書かれていました。
でも、太田道真と月江正文、直接の接点は無かったようで、正文の法を嗣、一州正伊がその間にいたようです。
一州が小山田の大川(泉)寺へ至ったこと、道真が(×相模)武蔵に一寺を興し(中興)、それに一州を請うたが、法兄華叟菴を代りに住持としたこと。ここでは、太田道真が相模に一寺を興しとありますが、その寺名は書かれておりません
一州正伊の法を嗣、曇英慧応は、文亀2年5月24日(1502)に、別府清岩宗玄菴主(宗幸)の13回忌の法要を行っています。