太田道真が興した寺

 上野人物志の“僧正伊(一州正伊)”に、太田道真と月江(正文)の名前が書かれていました。
でも、太田道真と月江正文、直接の接点は無かったようで、正文の法を嗣、一州正伊がその間にいたようです。
 一州が小山田の大川(泉)寺へ至ったこと、道真が(×相模)武蔵に一寺を興し(中興)、それに一州を請うたが、法兄華叟菴を代りに住持としたこと。ここでは、太田道真が相模に一寺を興しとありますが、その寺名は書かれておりません

 一州正伊の法を嗣、曇英慧応は、文亀2年5月24日(1502)に、別府清岩宗玄菴主(宗幸)の13回忌の法要を行っています。

 雙林三世林泉開山行状記は、曹洞宗の曇英恵應についての記録ですが、曹洞宗ではない建長寺の玉隠英璵が書いています。二人は、旧知の間柄であったようで、玉隠が雙林寺の曇英を訪ねたことも書かれています。

 曇英慧応の語録、文亀2年5月24日(1502)に、別府清岩宗玄菴主(宗幸)の13回忌の法要を子の定幸が行ったことが書かれています。
 この時代、成田氏が別府氏の上になったことは、一次史料には見えません。成田記にある成田氏、これは創作された歴史と思われます。
 足利成氏から別府氏に送られた書状、「忍城用心」、これは成氏から別府氏に送られたものですが、別府氏は忍城には居なかったのです。成田氏も忍城には居なく、この時、成田氏は成田に戻った時だったのです。

 足利成氏が、成田御陣から古河に帰った文明10年7月(1478年)から、「忍城用心」の書状の文明11年閏9月迄(1479年)の約1年間、この間に忍城に移れることはあり得ません。

 一応の和議が整い、成氏が古河に帰った後の1年間、忍城に関する戦いは一次史料には見えません。また、成田記の「忍の大丞」も一次史料には見えません。成田記はフィクションです。

曇英の仏事法要は、別府氏の他にも、つぎの人たちに対しても行っていました。
・安養院殿瑞室賀公禅定門の七周忌(姉)。
・長尾重景、林泉寺殿実渓正真禅定門十七之香語。
・長尾忠景(敬叟皎忠)菴主尽七日之香語。